2007年01月08日

BLAZE KING -a boy meets shooting game-

 川上稔というライトノベル作家がいる。

 パンツァーポリス1935という作品で作家デビューし、以降「都市シリーズ」と呼ばれる実在する都市を架空化させた物語で注目を集め、AHEADシリーズ「終わりのクロニクル」にて人気を博した作家であり、今、僕がラノベ作家で問答無用に作者買いするとなれば、この人しかいないと思う。

 彼の執筆した作品にはいずれも一つの特徴として、難解な設定の存在があげられる。
 都市シリーズにおいては根底に遺伝詞などといった大原則の設定がありながら、各々の都市の特色とも呼べる設定を有していて、それら「世界のシステム」を理解するのには、一度の読書だけではほぼ不可能で、理解するには再読せざるを得ない(漠然と理解した気になるのであれば再読の必要性は無いだろうけれど)。
 また「終わりのクロニクル」においても、各々の並行世界に概念と呼ばれるルールがあり、都市シリーズほどではないが、それがまた過剰とも評される設定の一端となっている。
 しかし、その難解で過剰な設定が――また彼の作品の魅力の一部となっているのも事実だった。
 奇を衒おうとして中途半端な設定を有する作品は、このラノベ界には八百万と存在している。だが、過剰な設定を突き詰めるところまで突き詰めて、作品そのものの魅力へと――作品と一体化させたさせたものは早々存在しない。川上稔の書く作品は少数派である後者であり、突き詰められた設定には彼の「本気」が窺える。

 前置きが長くなったがここから本題。氏の最新作の感想だ。
 「終わりのクロニクル」が大団円を迎えて終了し、次の新シリーズは何かと期待される中で発売された、最新作。その名も、

 連
 射
 王

 直球にも程があるタイトルだなあ。ワンピースだったら背後に「どどんっ!」の文字が、少年マガジン連載作品だったら背後に「!?」が付いていてもおかしくない程に、ストレートなタイトル。
 さらに題材が「STG」である。これまで常識外設定・常識外キャラクター・異能バトル・ロボットバトルなんでもありありなエンターテイメントを書いていた作家が、そういった要素を一切省いた現代のゲーム物を書く。それがどういったものになるのか、分厚い上下巻を買った段階ではまだ想像も付きませんでした。

 そしてライトノベル界生粋のエンターテイナーである川上稔が、その膨大な設定を己から取り外した時、作品の中――連射王の中に広がった物語はただ只管にストイックだった。そこには前述したような、奇怪な言動を取る必要以上にセメントなキャラクターは存在しないし、難解な概念を施された世界観も存在しない、ましてや異能者同士が大型武器やロボットを駆って何でもありありバトルを展開したりもしない。ただただアーケードゲームのジャンルの一つである、シューティングゲーム(STG)と向き合う姿が書かれるだけ。

 STGとは己との戦いである。基本は画面上の敵を撃墜していくゲームであるのだけれど、それを左右するのは己の技術と幸運と経験だけであり、その練磨の結果と向き合う為の手段の一つとしてSTGがあると僕は思う(手段そのものを楽しむ意味合いもあるがここでは割愛)。
 一方の格闘ゲームやレースゲームは概ね対人戦というものが用意されていて、己の練磨という「内」の先に対戦という「外」へと続く道がある。だが、STGは違う。スコアを競うことで全国のシューターと戦うことは出来るが、それはあくまでも自己を突き詰めた結果を競っているだけで、格ゲーの対戦みたいに手段(過程)の段階で「外」と繋がることは無く、ただただ内へ内へと深く「潜っていく」だけ。

 連射王で書かれる物語もそれに該当する。主人公・高村コウは「何事にも本気になれない」という問題を抱えていて、その解決の糸口としてSTGと向き合うことを決断する。己の「本気」を求めて。
 先程も述べたように、STGは己の研磨のみと向き合うゲームであり、高村コウが求めていた「本気」、即ち自分自身の本質と向き合うには、なるほど、適していると考えてもさしつかえない。しかし何故にSTGなのか――それは後書でも綴られているように、多分に作者である川上稔氏の思い入れによるものなのだろう。

 川上稔作品読者ならば気付いている者もいると思うが、連射王の主人公・高村コウの「己の本気」を求める行動原理というのは、終わりのクロニクルの主人公である佐山御言のそれに近いものがある。
 佐山もまた何事にも「本気」になれない自分がいて、そんな彼が己の本気を発揮できるものとして「全竜交渉」へと身を置く。その姿はまさに「本気」を求めてSTGに向かい合う高村コウの姿そのものではないか。
 前者の「本気」はいつしか壮大な物語や奇抜なキャラクター、設定に飲み込まれるように埋没して、思っていたよりもあっさりと解決されてしまう。しかし、後者である連射王にそれは無い。高村コウが己の「本気」と向かい合う姿しか描かれていない(STGゲーム内という戦闘描写を通して)。

 高村コウを取り巻く人間関係などが描かれるが、それはあくまでも彼が自己の「本気」と向かい合う為の過程にしかならない。本筋はSTGを通した自己との向かい合いなのである。連射王はそんな話だ。
 エンターテイメントの装飾を取り外した結果、川上稔が書きたいものだけを残した結果、非常に不器用でストイックな作品が出来上がった。しかし、それこそが「都市シリーズ」「終わりのクロニクル」などではあまり窺い知ることの出来なかった、川上稔の本質なのかもしれない。
 なるほど。
 よくよく思い返せば、デビュー作の「パンツァーポリス1935」は「宇宙を目指す」という目的をただひたむきに追い求めた男が主人公の一人だった。その片鱗は伺い知ることが出来ていたというわけなのか。
 作品を重ねるごとにエンターテイナーとしての実力を付けていく川上氏。しかし、今作でその硬派な本質と向き合えたのはいい機会だったと思う。

 まあそういう観念的な話ばかりではなく、ただ後書で語られているように、純然たる動悸の「ゲーセンが熱かった時代」というものの空気を素直に楽しむのもいいかもしれない。というか、それがむしろ普通ですよね。
 新作が搬入される時のドキドキ感。同じゲームを楽しむ見ず知らずの人との交流。いつの間にか店員さんと仲良くなっている自分。通い詰めた日々。対戦。子供の頃あんなに入るのをビビっていた場所が、今では心地よくなっている事実。そういう昔自分にあった思い出を呼び覚まされる――連射王がそんな作品であることもまた確か。
 そうだ、久々にアーケードゲームをやりにいこう。馴染みだった兄さんおっちゃんはまだいるだろうか、音ゲーをやりこんでいた女の子たちは、あの気のいいバナナで飢えを凌いでいた店員さんは……そう思い、駅前のゲーセンまで足を運ぶ。

 思い出のゲーセンはパチ屋の駐車場になっていた。

■了■

・推敲とか全然していない、方向性見失っている感想ですが気になさらずに。
posted by 10=8 01 at 01:31| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ジェナさんも 上部 実施されるゲイ ホームページ 任期は年 文化・芸能 多面 ハンバーグ の検索結果 約 議席増を狙う
Posted by 「同性愛」は at 2007年07月13日 08:14
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Posted by ワールド at 2007年08月07日 05:40
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